セカンドライフは優しいゲームだ。
易しいゲームではない、優しいゲームなのだ。
易しいという意味で、簡単なゲームではない。
むしろ、インターフェイスといい、放り出されたような世界観といい、易しさとは対極にあると言えるだろう。
では、なぜ優しいゲームなのか?
それは、セカンドライフの世界の根幹を成しているものが『生む』という行為からきているに他ならない。
単純な例を挙げると、プレイヤーはあらゆるオブジェクトを生み出すことができる。
それは、まったくの無から有を生み出す行為で、それにより、現在のセカンドライフの世界観も構築されている。
他にも色々な点があるが、セカンドライフの中では壊すことはとても難しい。
消すことは容易い。しかし、壊すと言うことに関しては、元のオブジェクトを生み、壊れたオブジェクトを生み、スクリプトを生み、そしてやっと壊すことができる。
もちろんセカンドライフの中にも戦闘行為はある。
戦闘可能地区では、他のプレイヤーを殺すこともできる。
しかし、それはセカンドライフの遊び方の一つであり、目的ではない。
何かを壊したり、殺したりするためにも、まずは生み出すことからはじめなければいけない。
私たちは、何かを消費して生きている。
消費社会とも言われる現代では、生理的欲求のみならず、文化的、社会的欲求を満たすためにあらゆるものを消費していく。
そんな中で、生み出すことを最も身近な手段としたセカンドライフは、とても優しいのではないだろうか?
もちろん、すべての行為が善意からなりたっているわけではない。
経済的な欲求のためや、他の欲求のためになされる行為も多いことだろう。
それでも、破壊し、奪うためのいままでのゲームにはなかった、新たなる欲求がそこには確実に存在する。
モノを生み出し、そこから経済を生み出し、関係を生み出し、世界を生み出す。
そうして生み出された世界は、今も新たなプレイヤーを生み出し、優しさの輪は広がり続けている。
思えば、現実社会において、優しいことをしたり、「優しい人ですね」などと言われたりすると、少しだけ照れくさいような気がする。
それは、『優しさの裏に隠された打算』という行為が作り出した、悲しい風潮なのかもしれない。
本来の優しさなんてものは、そんなに難しいものでも、いやらしいものでもない。
実に単純な人間の本能の一つなのではないか。
セカンドライフの中では、至極当たり前な、そんなことに気がつかせられるような気がする。
セカンドライフのアバターはアニメーションなどを指定されない限り、手を柔らかく開いている。
それは、そっと手を差し伸べるためなのかも知れない。
マグスル second life セカンドライフの遊び方マガジン
magsl 2007/02/27









